永和九年、歳は癸丑(牛年)、暮春の初めに会稽山陰の蘭亭で、修禊の行事を行いました。多くの賢人たちが集まり、年齢を問わず皆が一堂に会しました。ここには高い山々と険しい山があり、青々とした森と細い竹が生い茂っています。また、清流が激しく流れ周囲を映し出し、流觞曲水として利用されています。座席が並べられその横に座って楽しむのです。たとえ音楽がなくても、一杯の酒と一首の詩で、十分に幽かな情緒を楽しむことができます。
この日、天気は晴れ渡り空気は清らかで、春の風が心地よく吹きました。仰いで宇宙の広大さを見つめ、俯いて自然界の多様さを観察しました。そのため、視覚と聴覚の楽しみを存分に味わい、心から楽しむことができました。
人々の関わりは一生のうちで時には心の内で考え合い、また時には身体を超えて自由に放浪することもあります。たとえ趣向や住まいが異なり静と騒がしくても、出会いに喜び自己満足を感じると、老いることも知らず時間が過ぎるのも気づかないことがあります。しかし、時が経ち疲れを感じると、感情は事物と共に移り変わります。以前の喜びが今はただの過去の痕跡となり、それに心を奪われることを避けられません。ましてや人生の長さや短さは変化に従い、結局は終わりを迎えるのです。古人も言いました。「死生もまた大事である。」それを思うと、痛ましいことです。
過去の人々の感慨を見れば私も同じように感じ、文を読みながらしみじみとした思いを抱かずにはいられません。死生を虚しいものと知り、また若い者と長寿の者を無意味と感じることは理解しています。後の人々が今を見れば、今の私たちのように感じることでしょう。悲しいことです。だから、時の人々を列挙しその述べたことを記録し、たとえ時代が異なってもその心の動きは一つであると感じています。後の人々もまた、この文章を読んで何らかの感慨を持つことでしょう。(竹村天祐/訳)